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こ
荒山公園【こうぜんこうえん】

ニュータウン最初の公園として、昭和44年(1969年)に開設。多治速比売神社を囲んで南北に広がる。同神社は「荒山の宮」とも呼ばれ、公園名はこれに由来する。堺市公園部によって1984年から3年計画で植えられた梅の木(約50品種・1400本)が成長し、いまでは梅の名所として泉北ニュータウン外からも多くの人が訪れる。桜の名所としても有名。南側に亜熱帯樹を集めた円形花壇、北側には広い芝生地がある。
面積176,000?でニュータウン最大。
泉北高島屋屋上にあった新宮晋氏の動く彫刻「風のあいさつ」がパンジョ改装にともない撤去され、1997年にこの公園に移された。
光明池【こうみょういけ】

和泉市光明台に所在するかんがい用のため池。満水時の面積は35.6ヘクタール、周囲4キロメートル。府下最大の貯水量(370万立方メートル)を誇る。昭和3年(1928年)4月1日着工、昭和16年(1941年)に完成した。建設にあたっては朝鮮半島から多くの労働者が駆り出され、池の近くには「朝鮮人労働者の慰霊碑」が建つ。
名称は、この地が光明皇后生誕の地であるという伝説に基づく。
…奈良に都のあったころ、和泉市室堂にあった薬師寺に、知海上人という徳の高い僧が住んでいて、この僧に1頭の雌鹿がよくなついていた。あるとき、僧が庭で小便をしたところ、この雌鹿がなめ、上人の子をはらんだ。月満ちて生まれたのは女の赤ん坊で、村人によって育てられたが、美しいことで評判であった。そのころ、都から右大臣・藤原不比等がこの地を通りかかったとき、田が光り輝いていることをいぶかり「あの光は何じゃ」と調べさせると、早乙女たちのうちの1人、雌鹿の生んだ娘から光がさして、あたりが輝いていたのだという。そこで「このような光り輝く娘は見たことがない」と都に連れてかえった。このとき、娘の母親である雌鹿は、ひそかに村の坂まで来て別れを惜しんだ。この坂が今の「女鹿坂(めがさか)」である。娘は時の帝・聖武天皇の妃になり、これが有名な光明皇后である…と、この地方では伝えられている。
また、現在の光明池が出来る前にも、「光明池」があったという説もある。白鳳時代に行基が掘った池があり、この池の竣工の際に光明皇后が聖武天皇とともに臨幸した。それでその池を光明池と名付けた、とのことだ。 現在の光明池は美しいアーチを描く光明池大橋とともに広く市民に親しまれ、その景観は「大阪緑の百選」(1989年選定)にも選ばれるほど。市池周辺で毎年「ふれあい3時間走」が開催される。
池の北堤、守護神社そばには雨乞い蛙がある(「あ」の項参照)
光明池アクト【こうみょういけあくと】

光明池駅前、鴨谷台2丁1番に所在する商業ビル。同駅前にかねてからショッピングセンターを計画していた「ひかり事業協同組合」が1985年(昭和60年)に府企業局から用地を購入、駅前専門店街「サンピア」と計画内容の調整を行い、翌年着工した。ビルの愛称を一般募集し、応募総数570点の中から、片山智恵子さん(原山台5丁)の「光明池アクト」に決定。1988年(昭和63年)4月24日オープン。地下1階、地上7階建て、敷地面積約2100?。透明カプセル型のエレベーターが外観に特徴を与えている。
当初は 物販・飲食店20数店舗のほか、スポーツクラブや文化教室などが入っていた。現在は文化教室はないが、歯科、耳鼻科から眼科、泌尿器科など医院や処方箋薬局が入っており、メディカルセンター的な側面も。スポーツクラブはフィットネスクラブコ・ス・パ。また、カラオケ店や今風居酒屋も入店、レジャースポットしての人気も高い。
光明池一番街【こうみょういけいちばんがい】
光明池駅内(ホームの下)にある商店街。昭和52(1977)年8月にオープン。オープンした当初は18店舗。ほとんどは泉ヶ丘地区などですでに営業していた店だった。2010年現在は銀行、歯科医院のほか9店舗が営業している。住所は新檜尾台2丁1番。

光明池駅【こうみょういけえき】

泉北高速鉄道の駅。堺市南区新檜尾台2丁に所在。
昭和52年(1977年)8月開業。地上3階建で1階が店舗(光明池1番街)、2階がコンコースと駅務関係、3階がプラットホーム。泉ヶ丘駅や栂美木多駅と違い、ホームが高架で見晴らしは良いものの吹きさらしの状態であったため、96年にガラスの風防壁が取り付けられた。泉北高速が光明池までの時代は発車待ちの列車内で雨や風をしのぐこともできたが、和泉中央駅開業後はそれもできなくなったため。2008年、開業以来はじめての全面改装工事(耐震補強工事含む)を行い、コンコースを拡張、エレベーターやトイレの位置を変更、コンビニもできた。
光明池大橋【こうみょういけおおはし】

光明池の水面をまたぐアーチ型の歩行者専用橋。昭和60年(1985年)春開通。長さ157.6メートル、幅4~6メートルで、世界でも珍しい構造、型式を採用した長大歩道橋。総工費約4億8千万円。住宅・都市整備公団が建設。自然との調和やモニュメント性を配慮した設計などが評価され、昭和60年度の土木学会田中賞受賞。1986年には槇塚台の鬼塚史朗さんが多重反響現象、いわゆる「鳴き龍」を発見して話題になった。橋の中央でポンと手を打つと、路面と天井の間を音が何回も反射して、ぶる・る・る・る…と響くもの。なお、光明台ニュータウンの完成を記念して昭和60年(1985年)に行われた光明台フェアに先立ち、大橋の愛称も一般公募、「あいあい橋」と決定してフェアで発表されたが、ほとんど定着していない。
光明池まつり【こうみょういけまつり】
夏休み最後のイベントとして毎年8月の終わり(はじめは7月下旬に開催していた)に光明池駅高架下広場などを会場にして開催される地域の祭り。美木多校区自治会や福祉委員会、サンピアなど周辺の商店街が実行委員会を構成している。2010年が31回目。
当初は「光明池フェスティバル」と称していたが、88年の第9回から「光明池まつり」と名を変えた。
1974年(昭和49年)に始まった泉北まつり(1991年が最後)の会場が泉ヶ丘に集中することを不満として、光明池地区の自治会が抜け、サンピアが開いていた光明池フェスティバルに参加するようになったのがはじまり。泉北まつりは朝日新聞、光明池フェスティバルは読売新聞が後援、一時は「朝日VS読売」の様相を呈していた。現在は地域住民主導のまつりとして定着、コンサートやバザー、縁日などでにぎわう。
光明センタービル【こうみょうせんたーびる】
光明池駅前、鴨谷台2丁5番に所在するビル。4階建て・のべ1757平方メートル。郵便局や医院、集会室などが入っている。1980年4月開業。泉北センターの管理であったが、05年1月に民間に売却された。
なお、名称の「光明センタービル」はよく「光明池センタービルの間違いではないのか」と言われるが、決して間違いではない。ただし、オープン直前にやはり「光明池センタービル」と思い込んだ業者が壁面の表示を「光明池センタービル」とし、あわてて「池」の字を取り外させたというエピソードもある。
こおどり【こおどり】

桜井神社で毎年10月第1日曜に奉納される伝統舞踊。昭和47年には国の無形文化財になっている。
もともとは鉢ヶ峯の国神社に伝わっていたもの。国神社が明治43年の神社統合で桜井神社と合併して以来長く途絶えていたが、昭和8年に桜井神社に奉納するというかたちで復活した。現在は地元住民による「鉢栄会」によって保存・継承されている。
「ひめこ」(長い竹竿に色とりどりの紙片をつけたもの)を背負った鬼と天狗が円の中で踊り、そのまわりを一文字笠に紋付の「外踊り」が、鉦と締太鼓のはやしにあわせて踊る、ゆったりとした踊りである。踊り手は鉢ヶ峯寺地区の小・中学生の男子。雨乞いのための踊りだったとか収穫の喜びを神に感謝したものだとか言われているがはっきりしない。
小谷城郷土館【こたにじょうきょうどかん】

堺市南区豊田1602-1に所在する民俗資料館。郷土史研究者として、また民具や考古資料、武器の収集家として知られた故・小谷方明(こたにみちあきら)氏がすでに1971年には自宅内に「小谷城郷土館」を設けていたが、1991年に氏が亡くなった後、遺族や関係者によって財団法人化。新たに「財団法人小谷城郷土館」として1992年に開館した。
小谷家は中世の豪族の家柄で、城跡は堺市内最古の山城のひとつ。資料館は江戸時代に建てられた旧宅部分を改造したもの。郷土館正門は、1727年伯太藩主渡辺基綱が和泉市伯太に築いた陣屋(伯太陣屋)の裏門を移築したものと伝えられている。
Tel 072-296-8435

