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と
陶器山トンネル【とうきやまとんねる】
泉北ニュータウンと狭山ニュータウンを直結するトンネル。泉北タウン内のH5号線と狭山タウン内の東西道路(金剛泉北線)をつなぐ。トンネル開通と同時に金剛泉北線~310号線との接続部分も開通、310号線~泉北H5号線まで1700メートル全線が開通することになった。
両ニュータウンは眼と鼻の先にありながら、陶器山が道路を遮断、いったん泉北中央線に出て迂回するという不便な状態が続いており、交通渋滞も深刻だったことから、地元の要望を受けて昭和58年(1983年)府企業局が着工、昭和61年(1986年)6月に開通した。長さ60メートル、幅員19メートル、4車線。工事は陶器山をいったん切り開き、トンネルを築造したあと、その上に土を埋め戻して植栽し、山の原状回復をはかるという方法をとった。付近住民は「トンネルができると交通量が増え、住環境が破壊される」と反対し、府公害審議会に調停を申請していたが、昭和60年12月に環境整備を盛り込んだ調停案で和解が成立した。トンネル開通後、南海バスはただちに陶器山トンネルを通る泉ヶ丘駅~狭山タウンの路線バスを運行、翌1987年には現在のコミュニティバス(泉ヶ丘~狭山タウン~金剛駅)の運行を開始した。
陶器山七不思議【とうきやまななふしぎ】
泉北ニュータウンと狭山ニュータウンの間に横たわる陶器山付近には弘法大師にまつわる伝説が残っており、「陶器山七不思議」と呼ばれる。以下のようなものであるが、ニュータウン開発にともない、これらの伝説をうかがわせるようなものは残っていない。
○「千畳敷」(せんじょうじき) 高倉寺の南方500メートルのところの小高い山の上に赤茶けた広場があった。ぐるりは松林がうっそうと茂っていたが、ここだけ草も生えずきれいな台地だった。その昔弘法大師が護摩を焚いて天下泰平五穀豊穣を祈られたところと伝えられていた。
○「黄金塚」(こがねづか) マキ塚とも呼ばれたところで千畳敷の南方100メートルの小高い丘の上に黄金が埋められてあり、夜になると光を放ったという。また、一説に弘法大師が経巻をこの丘に埋められたことから、巻塚(まきづか)と呼ばれていた。このマキ塚に後世、宝キョウ印塔が建てられ、灯明をともして灯台の用をなした、と伝えられた眺望絶佳なところであった。
○「梵字ヶ芝」(ぼんじがしば) 黄金塚の東方500メートルの地点で山の中腹に弘法大師が手に持った楊杖(しょうじょう)で地面に「かんまん」という梵字を掘られた。10メートル四方で深さが30センチくらいあり、千百年以上も経過しているのに少しも埋もれず草や笹も生えず、また字の姿かたちも崩れず、中にはきれいな水が溜まっていた。これが七不思議のナンバーワンで、ここにお参りして、溜まった水を飲めば難病も治ると、たくさんの人がお参りしていた。そして、誤って付近の松の木を切った人がたちまち腹痛を起こし、その場に倒れたことも実際にあった。
○「笹無谷」(ささなしだに) 梵字ヶ芝より東方100メートルほど山道を登れば天野街道(狭山から天野山へ通じる河泉国境の道路)があり、道路の東側が河内、西側が和泉である。この和泉側一帯の数百メートルの間には笹が一本も生えず、東の河内側は一面笹だらけであった。昔、弘法大師がここを通られたとき、風が吹いて笹の音がバサバサとやかましく、同行の人の話が聞こえないので、お大師さんがお加持なされたら以後、笹が一本も生えなくなったと言い伝えられる。
○「猫坂」(ねこざか) 昔、この地方に大飢饉があったが、当時は交通の便もなく、遠方からの食糧の輸送が困難であったため、草の根をしがみ、木の実を食べて飢えをしのいでいた。犬や猫にまで食料を与えることができず、飼い猫をみな山へ捨て、捨てられた猫はみな餓死した。その後、毎年大みそかの晩に、この坂のところにその猫たちが集まってうらめしそうに泣きわめいた。ちょうどその時、弘法大師がここを通られ、かわいそうにと御回向(ごえこう)をなされたら、それ以後鳴かなくなったと言い伝えられる。
○「舟の型」 猫坂の南方500メートルの地点、天野街道の道端の山の中にちょうど舟型のくぼみがあった。昔、弘法大師が支那(中国)から舟に乗って日本に帰って来られて高野山へ登られるとき、ここに舟を乗り捨てられたが、舟は朽ちても舟の型だけは残ったと言い伝えられる。
○「大師井戸」 舟の型の南方500メートルの地点にあり、上神谷(にわだに)の畑村やおく山村の近くである。この地方一帯は井戸を掘ってもあまり水が湧かないところだが、弘法大師がここを通られた時、のどが渇いたので里人に一杯の水を所望されたが、御坊に飲んでいただけるような水はありませんと断られたので、大師が手に持った楊杖を地面に差し込むとたちまち冷たい清水がこんこんと湧き出したと伝えられる不思議な井戸である。
栂【とが】
①明治22年~現在の大字名。泉北2号線と原山台の間に所在する。旧上神谷8か村の中で、ニュータウン造成後、生活に最も変動のあった村の一つといわれる。古く鎌倉時代は豊田村の一部として若松荘といい、京都仁和寺の荘であったが、江戸中期以降、豊田他7か村は伯太藩渡辺丹後守の領地となり、栂村だけは、本藩が千葉県関宿にある久世大和守領となり、堺市伏尾に陣屋のあった久世領に属した。
昭和43年、一部が原山台5丁、同48年原山台1~5丁・庭代台1~4丁、同53年御池台1~5丁となる。
②南海バスのバス停名。泉ヶ丘~鉢ヶ峯行き路線にある。関西電力そば。
栂大橋【とがおおはし】
栂美木多駅のすぐ東側にかかり、桃山台と原山台を結ぶ全長71.5メートルの陸橋。下を泉北高速と泉北1号線が通る。写真では手前が原山台(ダイエー側)、向こうに見えるのが南区役所。昭和48年(1973年)5月竣工。
栂センタービル【とがせんたーびる】
栂美木多駅前(原山台2丁)に所在する建物。1973年12月オープン。このビル内に専門店街(ガーデンシティ=旧サンクール栂)や事務所、市役所中出張所(現在はない)などが入り、ダイエー栂店とあわせて栂地区センターを形成していた。当初は泉北開発センター(後に泉北センター、いまはタウン管理財団)の管理であったが、空き店舗も多く、80年代にはすでに活性化の必要性が言われていた。
2003年3月に泉北センターと府企業局が共同で栂センタービルとセンタービル裏の駐車場を民間に売却、泉北センターは栂センタービルの賃貸事業から撤退。駐車場は立体化して民間が運営する24時間営業の「栂セントラルパーキング」となり、空いた土地に高層マンション(グランフォレスタコート栂・美木多)が建設された。専門店街(サンクール栂)も新しいテナントを入れ、2004年4月、ガーデンシティの名称でリニューアルオープンした。
栂文化会館【とがぶんかかいかん】
ニュータウンで初めての本格的なホールを備えた文化施設としてとして昭和59年(1984年)栂駅前にオープン。敷地5300平方メートル、鉄筋3階建て、延べ床面積4870平方メートルで、700人収容の大ホールのほか、料理室、陶芸室、図書室(南図書館栂分館)、音楽室などがある。このホールを拠点として「泉北で音楽を聴く会」が発足、一流のプレイヤーの音楽を低料金で、を合言葉に、コンサートや新人演奏会を開催するなど活動した。ホールの緞帳には桜井神社に奉納される郷土芸能「こおどり」を描いた絵(長谷川望さん作)があしらわれている。
栂美木多駅【とがみきたえき】
昭和48年(1973年)12月、泉北高速鉄道3つ目の駅として開業。桃山台2丁1番1号。島式ホームで改札はホームの上にある橋上駅。開業に際して、駅名は当初、「栂駅」と予定されていたが、実際の駅の建設地が美木多地区に属していたことから美木多校区連合自治会が「美木多」駅とするよう要望。これに対して栂を含む上神谷校区連合町内会が反対、府や市も調整に難航ーという駅名あらそいがあった。結局、両者が折れ合って、「栂・美木多」で合意。駅名としては珍しい「・」のある名前となっている。ただし、「・」は半字分とし、二つの駅のような錯覚を避けることとしている。駅の開業と同時に栂地区センターもオープン。翌年3月にはダイエー栂店が開業した。改札から続く歩道橋には当初屋根がなかったが、昭和52年に設置された。南区役所の最寄り駅。2008年度の1日平均乗降客数24141人で、泉北高速の駅では最も少ない。
となかい公園【となかいこうえん】
竹城台3丁2番(竹城台郵便局近く)にある児童公園。面積0.25ha。
とんぼ公園【とんぼこうえん】
城山台2丁3番(近隣センター近く)に所在する児童公園。入口にとんぼの絵のプレートがある。面積0.38ha。

